意味から始める情報学

なぜ、マスメディアの情報はイマイチ信頼できないのか。それは意味がわからないからだ

吉田調書報道ー「命令」と「撤退」誰が決めるか、決めたか

前回のブログの続編になります。お伝えしたように、あえて吉田調書報道は問題なかったのではないか?という視点から考察します。吉田調書報道問題の内容と「言明」「アサーション」からの考察については前回のブログを参照頂ければと思います。

 

 

alvar.hatenablog.com

 

この報道で問題になったのは、つまるところ一面トップの大見出しで「所長命令に違反 原発撤退」と打った朝日新聞の「表現」が、吉田調書(=吉田氏の言明)を誤って伝えていたのではないか、ということです。さらに本文で「東日本大震災4日後の2011年3月15日朝、第一原発にいた所員の9割にあたる約650人が吉田氏の待機命令に違反し、10キロ南の福島第二原発へ撤退していた。その後、放射線量は急上昇しており、事故対応が不十分になった可能性がある」と伝えました。これは、吉田調書に対する朝日新聞の「評価」に関する問題です。

 

まず、見出しから考えてみましょう。

朝日新聞が設置する「報道と人権委員会」(PRC)は「命令に違反」した事実があったか、そして命令に違反した「撤退」はあったのかの2つに分けて検討しています。

まず前者の問い―「命令に違反」はあったか―ですが、前回お伝えしたように、この表現の根拠となったのは吉田氏の次の証言でした。

「本当は私、2F(福島第二)に行けと言っていないんですよ。(筆者中略)福島第一の近辺で、所内に関わらず、線量の低いようなところに1回退避して次の指示を待てと言ったつもり」

しかし、実際には吉田氏自ら「伝言ゲーム」と語っていたように、うまく所員には伝わっていなかったことが、その後の所員への取材でも明らかになりました。取材を受けた所員によれば、吉田所長の発言を直接聞く機会はなく、上司に指示されて第二原発行きのバスに乗ったが、その前日に話が出ていた第二原発に行くという方針が維持されたと受け止めたというのです。さらに、吉田氏の証言では「よく考えれば2Fに行った方がはるかに正しいと思ったわけです」と吉田氏自身が第二原発に行ったことを肯定していました。

したがって、PRCは吉田氏の指示は「所員の多くに的確に伝わっていた事実は認めることができない」「所員が第二原発への退避をも含む、命令と理解することが自然であった」とし、実質的な「命令」と評することができる指示とは認められない、としました。

 

これって、ちょっと違和感がありませんか?すなわち①指示が的確に伝わっていなかったこと②結果的に指示が適切でなかったこと、をもって命令はなかった、というわけです。

「命令」かどうかは、指示が適切に届いているか、指示が適切であったと指示を出した人が過去を振り返って評価しているかで決まるものなのでしょうか?私自身の見解としては命令と呼ぶか指示と呼ぶかは特段問題ではなく、「違反」という言い方に問題があったのではないかと思います。指示が届いていなかったのに、「違反」はさすがにおかしいですね。

 

「撤退」という表現について、記事を担当した記者らは、「一度第二原発に退避すると簡単に戻れないこと」や「第一原発に残ったのは69人にすぎなかったこと」から、「撤退」という言葉を使ったと説明しています。これに対してPRCは、「退避」と「撤退」では読者の受け止め方が違ううえ、第一原発にはまだ本部機能があったと指摘。「命令違反」に「撤退」を重ねた見出しについて、「否定的な印象をことさら強めており、読者に所員の行動への非難を感じさせる」としました。

うーん。これも何か結論ありきな気がしませんか?もちろん、撤退の方がネガティブなイメージを受けますが、担当記者が主張したように「第一原発に残ったのは69人にすぎなかったこと」(所員のうち9割の690人が退避)を「撤退」と表現するのは、それほど無理はないように思います。むしろ、吉田氏自身が「はるかに正しい」と振り返った第二原発への「退避」(もしくは「撤退」)の必要性がなぜ生じていたのかが問題であり、それによって「退避」だろうと「撤退」だろうと、本来はさほど問題にならないはずです。

 

さらに、記事本文では「命令違反して退避」の結果、「事故対応が不十分になった可能性がある」と伝えました。実は朝日新聞の検証記事にもPRCの見解要約にも、この「事故対応が不十分になった可能性がある」という評価についての是非は記載されていません。これは究極、朝日新聞の言明としての「評価」であり、この評価は信頼できるものだという「アサーション」がなお成立しうるということでしょうか。

 

以上のように、「違反」したという表現は問題があったかと思いますが、その他の「命令」や「撤退」、あるいは「事故対応が不十分になった可能性がある」という表現については、私は「アリ」だったと思います。でもそんなことは吉田氏は一言も述べてないんだ、という批判はあるでしょう。

だからこそ、二重のアサーションをはっきりさせる必要があると強調しておきます。つまり、今回問題になったような表現はすべてが朝日新聞自らの言明における「評価」「表現」であり、吉田氏自身のものではない。そして、オリジナルの記事にも、吉田氏自身がそのような評価をしたとか、表現をしたとは書いてないのです。

しかし、これは一般の読者にはわかりづらい。

情報を伝える側が情報を受け取る側に、誰の言明かをわかり易く表示することが最大の課題といえると思います。

 

(2020年3月14日 一部修正)

「言明」「アサーション」を使って吉田調書報道問題を読み解く

ここまでお伝えしてきた「言明」と「アサーション」という概念を使って、近年問題になった報道事例を分析していきたいと思います。今回は朝日新聞の吉田調書報道を取り上げます。

 

問題の概要

朝日新聞は2014年5月20日朝刊の1面トップで「所長命令に違反 原発撤退」と見出しを付け、独自に入手した東京電力福島第一原発所長で事故対応の責任者だった吉田昌郎氏(故人)の証言(吉田調書)によると「東日本大震災4日後の2011年3月15日朝、第一原発にいた所員の9割にあたる約650人が吉田氏の待機命令に違反し、10キロ南の福島第二原発へ撤退していた。その後、放射線量は急上昇しており、事故対応が不十分になった可能性がある」などと報道しました。

ところが、その後の9月11日には、同調書の内容からは所長命令に違反し、所員が原発から撤退したとしたのは誤りであったとして、記事を取り消しました。木村伊量社長が記者会見を開き、読者と東電関係者に謝罪するまでに発展しました。当時の朝日新聞は直前の8月にも慰安婦問題に関する記事を取り消しており、再び大きなダメージを受けたのでした。

 

吉田調書によると吉田氏は「本当は私、2F(福島第二)に行けと言っていないんですよ。(筆者中略)福島第一の近辺で、所内に関わらず、線量の低いようなところに1回退避して次の指示を待てと言ったつもり」となどの発言があったといいます。そして、実際に所員の9割は第二原発に行ったため、担当記者はこれを「命令に違反して撤退」と原稿に書き、見出しにもなったのです。ところが、この指示が所員の多くに的確に伝わってないと考えられることがわかったのです。その後の追加取材で実際に退避した所員の話では、吉田所長の発言を直接聞く機会はなく、上司に指示されて第二原発行きのバスに乗ったが、その前日に話が出ていた第二原発に行くという方針が維持されたと受け止めた、というのです。

加えて、吉田氏自身が同調書の中で実際には「2Fに行けとは言っていない」の後に「ここがまた伝言ゲームのあれのところで、行くとしたら2Fかという話をやっていて、退避をして、車を用意してという話をしたら、伝言した人間は、運転手に、福島第二に行けという指示をしたんです」と続けており、さらに「よく考えれば2Fに行った方がはるかに正しいと思ったわけです」と吉田氏自身が第二原発に行ったことを肯定していたことがわかったのです。

これらの吉田氏の証言は5月20日の紙面には掲載されませんでした(デジタル版には掲載)。

つまり、これらの証言を鑑みれば吉田氏の指示は所員に伝わっていなかった可能性が高く、また吉田氏自身が第二原発への退避を肯定していることから、「命令に違反」とはいえないと問題視されたのです。また、さらに「撤退」という言葉を使ったことで「否定的な印象を強めており、読者に所員の行動への非難を感じさせる」と、朝日新聞が設置する「報道と人権委員会」(PRC)も指摘し、記事の削除が妥当であるとしています。そして、何よりそのような疑念を生じさせる吉田氏の証言自体が当初の紙面に掲載されなかったので、担当記者は否定しているものの、恣意的に証言を選択したかのような印象が残り、「記事は、公正性、正確性への配慮を欠いていた」とPRCは評価しています。

 

ここで、前回示した「言明」と「アサーション」の概念から、この問題を分析してみましょう。

 

言明とアサーションから分析してみる

―誰の言明か―

言明とは「真偽または確からしさを決定することのできる主語と述語からなる文」であり、「真偽を決定(証明)できるのは、われわれが当該言明の意味(アサーション)を知っているから」でした。 

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したがって、情報の信頼性を検討する際には、言明の意味を考えることが必要であり、その前提として情報が誰の言明であるのか明らかにすることがまず必要となるのです。

この報道は吉田氏の証言について朝日新聞が記事化して読者に伝えていると考えることができるでしょう。これはどういうことかというと、二重に言明が存在しているということになります。

①吉田氏の証言

朝日新聞の吉田調書の報道

さらに細かいこというと、①は(a)吉田氏が吉田氏の体験に基づく証言と(b)(a)の吉田氏の証言を聴取、反映した調書(書面)とに分類できるでしょう。そして②が伝えているのは①(b)の内容です。そして、それぞれの言明について真偽を考えることが信頼性を検討することになるのです。

 

①吉田氏の証言―真 or 偽

(a)吉田氏が吉田氏の体験に基づく証言と―真 or 偽

(b)(a)の吉田氏の証言を聴取、反映した調書(書面)―真 or 偽

朝日新聞の吉田調書(①(b)の報道)―真 or 偽

 

 

朝日新聞が負っている情報の信頼性とは、まず吉田調書の内容を適切に伝えているか(②)、ということになるでしょう。そしてまさに、この点が問題になったわけです。

もう一つ信頼性という観点で別の見方もできます。吉田氏の言明自体が真実であるのか(①)、すなわち本当に2Fに行けとは言っていないのか、とか、吉田氏の証言が調書に適切に残っているのか、ということです。

私は、この情報提供者の言明自体の真偽についてはマスメディアの責任の範疇を外れていると思っています。といいますか、そのことをマスメディア自体がはっきりと明言すべきだと考えています。以前にも申し上げましたが、マスメディアが伝える情報は、基本的には信頼できる情報源から得た情報を伝えているから、信頼できるのです。例えば行政機関が発表する種々の情報について、一々それが正しか検討しているマスメディアはありません。それが誤っていれば、発表した行政機関が責任を負うまでのことなのです。

つまり、今回でいえば、吉田氏の証言はすべて正しいことが前提で記事は書かれていくものであるのです。この二重のアサーションはメディアのあらゆる情報を検討する際のキーになる観点なので、今後も事例を交えて説明していきたいと思います。

 

アサーション(意味)を考える―

アサーションとは情報の意味でした。いくつかに分解して考える必要があります。

朝日新聞の「評価」

問題となった記事は「所長命令に違反」との見出しで「東日本大震災4日後の2011年3月15日朝、第一原発にいた所員の9割にあたる約650人が吉田氏の待機命令に違反し、10キロ南の福島第二原発へ撤退していた。その後、放射線量は急上昇しており、事故対応が不十分になった可能性がある」と伝えました。これは端的に言うと朝日新聞記者の「評価」になるでしょう。

「命令に違反して撤退」したとは吉田氏は言っていないし、記事も吉田氏がそう言っただとか、吉田氏がそのように評価しているとは書いていないのです。したがって、この「命令に違反して撤退」の言い回しはマスメディア側の「評価」としての表現になるといえるでしょう。そしてこの「評価」を誤った、というのが今回の問題だったわけです。

 

・吉田調書報道の「正確性」と「網羅性」

「本当は私、2F(福島第二)に行けと言っていないんですよ。(中略)福島第一の近辺で、所内に関わらず、線量の低いようなところに1回退避して次の指示を待てと言ったつもり」

こちらは吉田氏(正確には吉田調書)の言明そのものの「正確性」になるでしょう。吉田調書には××の情報が記載されています。朝日新聞はその記載を正確に再現しています、というのがアサーションになります。もちろん、朝日新聞がどこかでそのような宣言をしている訳ではないです。ただ、この記事の情報が信頼できる、あるいは朝日新聞が信頼性を保証していると考えるならば、その信頼性の内容を考えなければならず、その内

容がアサーションということになるのです。

そうした意味で「ここがまた伝言ゲームのあれのところで、行くとしたら2Fかという話をやっていて、退避をして、車を用意してという話をしたら、伝言した人間は、運転手に、福島第二に行けという指示をしたんです」という記載が省略されていたことは「正確性」に疑念を生じさせます。あるいは別のアサーションが問題になるかもしれません。「この記事には吉田調書の内容を伝えるための記載が網羅的になされている」というアサーションです。情報が正しく受け手に伝わり、適切に評価されうるには、情報の「網羅性」(情報の恣意的な選択と対極にあるといえる)が必要になるでしょう。だから、当然に新聞記事は「網羅性」があるというアサーションが存在しているのでしょうか。実はそれさえも、明らかではありません。つまり、新聞社が提供している情報の信頼性とは何か。少なくとも「正確性」は含まれるであろう。しかし、その正確性には「網羅性」も入るのだろうか。入るとしたらどのように情報を取捨選択して「網羅性」を確保しているのか。アサーションを考えることは、記事の「信頼性の質(中身)」を決定することになります。これまで、メディアはそうした情報の意味を明確に示すことなく、曖昧にすることで、信頼性に対する責任を曖昧にしてきたといえるでしょう。それこそが最大の問題だと思います。

 

長くなりました。すみません、ところがまだ書きたいことがありまして。。

 

「所長命令に違反」という朝日新聞の「評価」について、あえて別に問題なかったのではないか?という視点から次のブログに追記させて頂きます。

 

会計監査とは④言明とアサーション

  さて、前回までに財務諸表の信頼性を検証するにあたって、その前提として財務諸表項目の意味を考える必要がある、その意味に対して監査の手続きが選ばれる、という話をしました。また、その意味は会計のルールに照らして明らかにできるということもお伝えしました。今回は同様の内容を監査論という学問においてどのように整理されているのか、理論的な体系をお伝えしたいと思います。特に重要となるのが、「経営者の言明」と「アサーション」という概念ですが、アサーションについては前回のブログで既にお伝えした内容でもあります。

 そして今回の内容は「財務諸表監査」(国元書房、鳥羽至英ら2015)の記述を引用しながらお話していきたいと思います。この本は「経営者の言明」及び「アサーション」の概念を中心に据えた財務諸表監査の概説書です。最終的に監査の対象になるこれら2つの概念について、ここまで丁寧にかつ深堀して解説している本を私は他に知りません。以下に示していくように、財務諸表監査を理解するには、「財務諸表とは何か」というところを出発点に「経営者の言明」、「アサーション」という概念にたどり着くまでの過程を理解する必要があります。

  そもそも財務諸表とは何でしょうか。財務諸表には貸借対照表や損益計算書、キャッシュフロー計算書があるというのはすでにお伝えしました。そしてその作成責任は一にも二にも経営者にある、ということもお伝えしました。経営者の産物である財務諸表と会社の外部者である監査人の監査とはどのような関係にあるのでしょうか。

 「財務諸表監査」によれば

「財務諸表とは、経営者が企業の事業活動に関連して生起した取引(経済的事象)を会計ルール(GAAP)に準拠して認識・測定・表示するというプロセス(会計プロセス)を経て作成したアウトプットであり、経営者の言明である」(p197)

といいます。財務諸表の英訳はfinancial statementですが、statementには言明という意味があります。そして、言明とは

「真偽または確からしさを決定することのできる主語と述語からなる文」(p20)であり、「真偽を決定(証明)できるのは、われわれが当該言明の意味(アサーション)を知っているからである」(同上)。

さらに同書を引用します。

「財務諸表監査は会計プロセスのアウトプットとして財務諸表を監査の主題とする。財務諸表の表示(項目と金額)には経営者の会計上の主張が含まれており、これがアサーションにほかならない。監査人は財務諸表に含まれているアサーションを識別し、それを監査手続きによって裏付け、当該アサーションについての信念を形成する、これが監査人の従事する認識の基本的内実である」(p190)。 

 会計上の主張、すなわちアサーションについては前回のブログの内容を見て頂ければ理解できると思います。財務諸表上の現金預金や売上の持つ意味(これがアサーションです)を明らかにし、その意味に対して監査手続きが選ばれるのです。今回注目して頂きたいのは、財務諸表自体が経営者の言明であって、その言明には経営者の主張、すなわちアサーションが含まれているという、「財務諸表は経営者の主張である」という考え方です。どういう主張かというと、繰り返しになりますが、例えば現金預金100万円は会社に帰属している、だとか売上1,000万円はすべて当期に帰属する、といった主張です。

 以上を踏まえると、監査とは「経営者の言明の信頼性を検証し、保証している」といえるのです。つまり、まず経営者の言明である財務諸表、そしてその意味であるアサーションがあって初めて監査が成立しうるということなのです。これを同書では「言明の監査」と呼んでいます。(なお、同書では非言明の監査も紹介しておりますが、ここでは割愛します)

 この構造は監査手続きにも影響することで、

「言明の監査の最大の特徴は、監査の主題たる言明自体が監査人の行うべき認識の方法と範囲を実質的に決定しているというところにある」(p356)。 

 例えば会社が他の会社の株式だとか社債を持っていれば有価証券として貸借対照表に計上されます。しかし、意図的かどうかはともかく、計上されるべき有価証券が一切計上されていなかった場合、監査人は有価証券の実在性だとか適切な金額で計上されているかといった検証の手続きを少なくとも最初の時点では計画しません。基本的には財務諸表に計上されている項目と金額を対象に手続きを計画するのです。仮にあらゆる会計事象の発生を想定して、計上がない項目についての手続きをすべて検討した場合、あまりに膨大になってしまうでしょう。

 

 この点、計上がない項目について監査が虚偽表示を見過ごしてしまう可能性は否定できないでしょう。しかしながら、例えば有価証券の計上もれがあれば、購入した際には現金の流出があります。配当があれば現金の流入もあります。したがって、現金預金など他の科目が監査されていれば、不整合に気づく可能性が大きいので、一概に監査で掬いきれないとは言い切れません。いずれにせよ、まず財務諸表という経営者の主張ありきなんだ、ということを覚えておいて下さい。

 

 これはある主体が何かしらの情報を提供する際に、その情報が信頼できるものであることを主体自ら主張する場合に、本当にその主張が信頼できるのか検討する際に広く応用できる考え方です。すなわち、情報の出し手がその情報の適正性に責任を持つときには、その情報の意味を明らかにすることができるという前提があり、したがってその情報の適正性を第三者からも検証できる。だから、その情報は信頼することが可能だ、という論理構造を立てることができるのです。

 

 私がこのブログを通じてお伝えしたいのは、マスメディアは自分たちが提供する情報について、「その情報は誰の言明なのか」、その上で「その情報の意味はどのようなアサーションで構成されますか」ということを明らかにすべきだということです。

 

会計監査とは③情報の検証とは意味を考えること

前回、財務諸表全体としての適正性という抽象的な目標を達成するために、具体的にはより下位の立証の目標を立てるということを説明しました。より下位の目標を立てるというのがどういうことかというと、例えば貸借対照表は現金預金や有価証券、借入金、資本金といった各財務諸表科目で構成されますが、各科目に計上される金額の意味を考えて、その意味に対して適切な監査手続きを選択するということなのです。例えば貸借対照表に現金預金が100万円計上されている場合、次のような意味があると考えるのです。

①現金預金100万円は実在している。(実在性)

②会社が所有する現金預金は100万円以外にない。(網羅性)

③現金預金100万円は会社に帰属している(所有権がある)。(権利と義務の帰属)など

あるいは損益計算書に売上1,000万円が計上されている場合、次のような意味があると考えます。

①売上1,000万円は実在している。(実在性)

②売上1,000万円以外に売上はない。(網羅性)

③売上1,000万円は会社に帰属している。(権利と義務の帰属)

④売上1,000万円は当期に帰属している。(期間配分の適切性)など

 

現金預金を例にとれば、A銀行に確認状を送り、A銀行の口座の残高が100万円であるとの回答を得ることにより、この現金預金100万円の実在性を確かめることができます。また、送付する確認状は会社の代表者の名前とともに社判を押して送付するのですが、銀行はこれらの情報をもとに口座を特定して回答するため、まずもってその100万円は会社に帰属するものであるといえるでしょう。難しいのは網羅性です。A銀行の口座には100万円しか残高がなくとも、B銀行の口座にはさらに50万円が預けられているかもしれません。もし、この50万円を無視して貸借対照表の現金預金が100万円と表示されていれば虚偽表示となり、適正に表示しているとはいえなくなってしまいます。そこで、確認状をすべての取引銀行に送り、現金預金の計上額に漏れがないか確かめるのです。同じことは借入金にもいえます。

 

売上でいうと、期間帰属、すなわちどのタイミングで売上を認識するかも問題になります。代表的な考え方には出荷基準と検収基準があります。その名前のとおり、前者は得意先に商品を出荷したタイミングで売上を認識し、後者は得意先が自社の商品を受領し検収したタイミングで売上を認識します。いずれの考えを採用しても、翌期に帰属すべき売上が当期に計上されていたり、当期に帰属すべき売上が翌期に計上されていたりすれば虚偽表示となります。例えば12月決算の会社で出荷基準を採用していた場合、X年の1月1日に出荷した売上について、X-1年の売上に計上していたらX-1年の売上は過大に計上されていることになります。こうしたことが起きていないか、出荷の記録である出荷報告書の日付や売上の記録である売上伝票を確認して各取引の売上の認識が正しいことを確認するという監査手続きが選ばれるのです。

 

以上のように、大事なのは信頼性を検証しようとしたら、そもそもその情報の意味を考える必要がある、ということです。意味を理解できて初めて信頼性の検証が可能となります。意味が不明瞭だったら信頼性を検証するスタートに立っていません。例えば売上が1,000万円というのがある特定の期間に帰属する売上かもしれないし、会社が設立してから今までの累計の金額を意味するかもしれない、あるいはある特定の得意先との取引分しか計上されておらず他にも売上が実在している可能性もある、といった情報の意味があやふやな状況では検証の対象が存在しないのです。

会計においては財務諸表の作り方そのものにルールがあり、「一般に公正妥当と認められる会計基準」と呼ばれています。経営者はそのルールに従って財務諸表を作る必要があります。売上を適切に期間帰属させるというのも、会計のルールで求められていることなのです。裏を返せば、財務諸表の意味はルールに基づいて明らかにできるということなのです。また、それ故に財務諸表が有用な情報足りうるのだ、ということができます。

 

私が、このような監査論の考えをご説明しているのは、あくまでメディア情報の信頼性について話したいからでした。

過去のブログに書いたように、メディアの情報(特にニュース)は、はっきりいってその意味がわからない。だから、本来信頼性を検証することができない。結果、メディア側がどんなに信頼性を強調したり検証したりしようとも、情報を受け取る側には不信感が残ります。逆説的に言えば、朝日新聞の吉田調書問題や従軍慰安婦問題、池上さんのコラム掲載拒否問題などなどの、検証記事やお詫びの会見など、事後的な対応の中において、はじめて記事の意味が明らかになるのです。

 

追記

他の方のブログを読んでいたら、↓のような過去の投稿がありました。

私が言いたいのはこういうようなことなんですね。

特に難聴になったいきさつと退職理由。

ryan-vandez.hatenablog.com

 

 

alvar.hatenablog.com

 

 

会計監査とは②情報学としての監査論

前回のブログで、情報の責任は当事者にある、ということを説明しました。そして、マスメディアの情報は伝聞にすぎないのだということ、その当事者が当事者の発表に責任を負っているから信頼できる、と書きました。つまるところ、大新聞や大メディアの情報がなぜ信頼できる(とされる)かというと、彼らの情報源、発表元が信頼できるから信頼できる、というのが一義的な理由なのです。そして、さらにはそれらの信頼できる情報源から聞いてきた情報が適切にアウトプットとして新聞記事やテレビのニュースに反映されるためには、取材した内容がノートなどに正しく記録され、記録された内容に基づいて原稿が作成、編集される必要があるでしょう。

詳細はまた後日に触れますが、この取材した内容の記録や原稿の作成、編集といった過程で情報には「意味」が加わります。もちろん、そもそも「信頼できる」情報源の情報には「意味」がありますし、基本的にはそれが情報の中身そのものです。そしてそれは情報源の責任において語られるものです。しかしながら、メディアがそれらを選択し加工した結果としての「信頼できる」(とメディアが主張している)情報には、メディアが付与している「意味」が、情報源が自身の発言に付与している意味とは別に存在するはずなのです。

何を言っているのか非常にわかりにくいと思います。ここでいうメディアが付与している意味とは例えば、「この記事に記載される事実は情報源が提供するプレスリリースやインタビューでの応答と一致している」(正確性)、「この新聞記事が今日の1面トップに掲載されているのは今日一番重要なニュースであるからである」(評価の妥当性)。

そして、財務諸表監査こそ、そうした情報の「意味」を考えて信頼性の検証を行っているのです。

 

今回から財務諸表監査とは何なのか、という詳細に入っていきたいと思います。

財務諸表や経理になじみのない方にはとっつきにくいかもしれません。ですが、このブログの目的は、財務諸表や経理について理解を深めてもらうことではなく、財務諸表という情報に対して、どのように信頼性を検証していくのか、財務諸表監査の考え方を知ってもらうことにあります。この考え方がマスメディアの情報の信頼性を考える上で非常に役立つのです。

 

会社は受託責任を果たすために会計報告を行う必要がある、と前回のブログでご説明しました。

会社の経営成績―どれだけ儲けたか―、財政状態―会社にどれくらいの資産や負債があり、株主に帰属するのはいくらか―といった会計の情報が適切に報告されることによって、経営者、株主、債権者らの利害対立が解消し、会社にとっては円滑に資金が調達できるようになるのでした。

具体的には財務諸表という形式に情報を集約するのですが、一会計期間(通常1年)の経営成績を表すのが損益計算書(PL)、一時点の財政状態を表すのが貸借対照表(BS)、一会計期間の収支(お金の出入り)を表すのがキャッシュフロー計算書(CS)になります。

公認会計士は監査人として、これらの財務諸表を対象に監査を行っています。

 

監査人による監査は、財務諸表全体としての適正性を対象としており、監査報告書においてその結論が報告されます。監査人が財務諸表を適正であると認めるとき、次のような結論が記載されます。「当監査法人は、上記の財務諸表が、我が国において一般に公正妥当と認められる企業会計の基準に準拠して、株式会社●会社名●の2016年3月31日現在の財政状態及び同日をもって終了する会計年度の経営成績及びキャッシュフローの状況をすべての重要な点において適正に表示しているものと認める」

財政状態、経営成績、キャッシュフローの状況とはそれぞれ財務諸表の貸借対照表(BS)、損益計算書(PL)、キャッシュフロー計算書(CS)を指しています。

 

監査の実務ではこれらを証明するために、様々な監査手続きを実施します。例えばPLの検証で広告宣伝費を検証しようという場合には、広告代理店からの請求書や銀行通帳上の出金などの証拠(会計証憑)と会計記録を突き合わせて単純に金額が一致しているかを確認します。さらに、これらの費用が計上される期間が間違っていないか、請求書の日付を確認することも必要です。貸付金や借入金があった場合には利子の受取りや支払いが生じますが、これらもまた金額の正確性や期間帰属が問題になります。契約書上の利率や元本、対象となる会計期間から再計算を実施することで、会計記録との一致を確かめるのです。

BSの検証はどうでしょうか。代表的な手続きに確認状の送付があります。確認状は監査の対象となっている会社との取引内容を送付先に回答してもらう手続きで、典型的には会社の取引銀行に送付する銀行確認状があります。銀行確認状を送ると取引銀行との取引が網羅的に記載されて返ってきます。会社が銀行に預け入れている預金残高や銀行からの借入金の金額といったBSに計上される情報を確認することができるのです。確認状は会社の外部機関からの回答を証憑とすることができるため、証拠力が高く必ず実施される手続きといっても過言ではありません。

 

しかし、ここで皆さんにお伝えしたいのは個々の監査技術ではなく、財務諸表全体としての適正性の検証という目的を達成するために、具体的にはより下位の立証の目標を立てることにより、監査手続きが決まってくるという、検証の枠組みです。

 

詳細は、次回ご説明しましょう。

会計監査とは①情報の責任は当事者に

今日は私の仕事である会計監査とは何か、ということをご説明したいと思います。

といっても、今回の話は非常に抽象的なレベルでの説明になり、だからこそ「情報の信頼性とは何か」というこのブログの核心部分につながる話になります。

 

そしてその前に、そもそも会計とは何でしょうか。

例えば大学のサークル活動を想像してみてください。テニスサークルでも音楽サークルでも、活動のための資金は基本的にメンバー一人一人の会費に依っているのが普通でしょう。そこで多くのサークルには会計係がいると思います。

一体メンバーからどれだけのお金が集まって、どんな風に使われたのか。そしてどれだけ余っているのか。それなりに規模の大きなサークルであれば、そうした会計報告を行っていることが多いと思います。これが会計の本質です。難しいことはありません。

これが企業の活動となるとどうでしょうか。会社を運営しているのは経営者です。そして、会社にお金を出しているのが株主と債権者です。まず、経営者と株主及び債権者との間には受託者と委託者の関係が成り立ちます。株主や債権者は経営者に対して一定の信頼の下にお金を出資し、経営者は委託された資金を適切に運用して株主に配当を出したり債権者に利息を支払ったり、借入金の返済をすることが求められます。委託された資金が適切に運用され、経営者が受託責任を適切に果たしていることを示すために会計報告が必要となるのです。

 

さらに言うと、株主の配当は会社の利益から支払われるので、もし会社が利益を出していないのに不当に株主に配当が支払われた場合、債権者に対する利息の支払いや借入金の返済が滞る可能性があります。この場合も、会社の経営成績ーどれだけ儲けたかー、財政状態ー会社にどれくらいの資産や負債があり、株主に帰属するのはいくらかーといった会計の情報が適切に報告されることによって、互いの利害対立が解消し、会社にとっては円滑に資金が調達できるようになるのです。

こうした、経営者、株主、債権者間の利害対立を解消する会計の役立ちを利害調整機能と呼ぶのです。

 

さて、ここから会計監査へのつながりはもうお分かりでしょうか。この会計報告は信頼できるものでなければ、利害調整の機能を果たすことができない、だからその適正性をチェックする会計監査が必要とされるのです。

ここで一点大事なことを強調しておきましょう。会計監査は経営者の会計報告が適正に行われていることをチェックする。その大前途として会計報告の責任は経営者にある、ということです。

なぜ、会計報告の責任(会計責任)が経営者にあるかは、受託責任を負っているからとも説明できます。また、仮に会社の会計を外部に委託したとしても、経営者は会社の資源をコントロールできる立場にいるので、自分にとって都合の悪い情報を隠したり改ざんしたりすることができるでしょう。したがって、外部の主体が最終的な会計責任を負うことはできないのです。実際に会社の会計を外部の会計事務所等が請け負うことはよくありますが、会計責任はあくまで経営者にあるのです。

監査論において、会計における責任は経営者にあって監査人にはなく、監査における責任は監査人にあって経営者にはないとする、両者の責任を峻別する原則を二重責任の原則といい、最も重要な概念といっても過言ではありません。(二重というとわかりづらいですが、二つに区分された責任といった方が理解し易いでしょう)

しかし、このブログでなぜ会計責任が経営者にあることを強調したいかというと、そもそも情報というのは、情報の当事者以外にとっては基本的に伝聞に過ぎず、その信頼性は結局当事者に依拠している、ということを強調したいためです。

 

例えば、「信頼できる」大手新聞社が企業について記事を書くとき、売上高や資本金の情報を含めることや、決算発表そのものがニュースになることは多々あることですが、「信頼できる」ソースとして有価証券報告書の数字が引用されることになります。この数字は会社が報告、発表したものであって、その信頼性は一義的に会社が責任を負っているのです。そして会計監査は、監査手続きを通じてその信頼性を外部者の立場から保証しているのです。そうした「信頼できる」情報は、決して信頼できるメディアが保証しているわけではないことに留意しなければなりません。

 

もちろん、企業ニュースだけでなく、事件記事でどのような事件が起こり、そして容疑者として誰が逮捕されたなど、基本的にニュースは当事者-多くの場合行政機関-からの伝聞によっており、その当事者が当事者の発表に責任を負っているから信頼できる、という構造になっています。

 

次回は、会計監査はどのように情報の信頼性を検証するのか。ひいては、情報の信頼性とは何か、という点に触れていきます。

 

宜しくお願いします。

 

意味不明なメディア情報の例

意味不明な記事とは例えば次のような記事です。

下記は「郵便不正事件」で逮捕された村木厚子さん(逮捕当時は雇用均等・児童家庭局長)が逮捕された数日後に朝日新聞が伝えた続報です。

この事件で問題となった「凛の会」は、活動の実態がないにもかかわらず障害者団体を名乗り、障害者団体向けの郵便割引制度の適用を受けていました。この制度の適用により、1通120円の郵便料金が8円に割引され、ダイレクトメールの送付を企業から引き受けることで不当に利益を得ていたのです。

凛の会が同制度の適用を受けるためには厚労省の「証明書」が必要でしたが、障害者団体としての実態がなかったにも関わらず証明書が発行されたため、その経緯が問題となりました。

 

2009年6月18日 朝日新聞夕刊

前局長、実態なし認識か 厚労省関係者話す 郵便不正容疑の団体

自称・障害者団体「凛(りん)の会」(現・白山会)を郵便割引制度の適用団体と認めた偽の証明書が厚生労働省で発行された事件で、当時課長で前雇用均等・児童家庭局長の村木厚子容疑者(53)が同会に活動実態がないと知りながら、発行手続きを進めるよう部下に指示した疑いがあることが大阪地検特捜部の調べでわかった。凛の会や同省の関係者の話で判明したという。

特捜部は、村木前局長が同会が適用団体の要件を欠くと認識しつつ、証明書の偽造を指示したとみて調べる。前局長は、虚偽有印公文書作成・同行使の容疑を否認しているという。

凛の会元会長(白山会代表)の××(筆者注:ここでは名前は削除します)容疑者=同容疑で再逮捕=の供述によると、××代表は04年2月下旬、障害保健福祉部の企画課長だった村木前局長と面会した際、「会は立ち上げたばかりで活動実態がない。会員にも障害者はほとんどいない」と説明したとされる。前局長は、上司の元部長(退職)から証明書発行の依頼は聞いていると答えたという。

また、厚労省関係者の証言によると、村木前局長はその直後、担当係長らに「まだ活動がほとんどない団体。大変な案件だけどよろしく」と話し、証明書の発行業務を進めるよう指示したとされる。同4月、後任の係長に着任した××容疑者=同容疑で再逮捕=が業務を引き継いだ際には、村木前局長の意向も伝えられたという。

一方、××代表は調べに「凛の会は商売目的で設立した」と説明。障害者団体向けの郵便割引制度の悪用で金もうけをするため、かつて私設秘書を務めた民主党国会議員に厚労省側への口添えを頼み、証明書を不正に入手しようとしたと述べたという。

  

何が意味不明かと申しますと、以上の記事が誰の主張かわかりづらい、ということです。

普通の読者がこうした記事を読んだとき、この村木という官僚が悪意で悪徳業者の口利きを図った可能性は極めて高いと記事は伝えている、と感じるでしょう。

実はその点、新聞社側のスタンスはあくまで事件の経過をニュースとして伝えているのであり、朝日新聞社側から村木さんが「クロ」の可能性が高まったというつもりはない、といいますか、そうした言い方は避けているのです。

最初の見出しを見ましょう。「厚労省関係者話す」とあります。

厚労省関係者は誰に話したのでしょうか。朝日新聞の記者ではなく、特捜部の検事にです。

そして、厚労省関係者が話した、という事実は誰によって朝日新聞の記者に伝えられたでしょうか。厚労省関係者ではなく、特捜部検事の誰かです。ここが一番わかりづらく、肝心なところです。記事の第一パラグラフの最後で「特捜部の調べでわかった」とあります。

                                                                                                                                      

すべては特捜部の調べによることなのです。

     

一体、どこまでが特捜部の調べによるもの=特捜部から記者が聞いてきたこと、なのでしょうか。私は特捜部の調べによる部分に下線を引いています。そう、全部ですね(笑)。

 

常々、こうした事件記事は捜査当局のリークの垂れ流しを基にしており、被疑者側の主張が反映されにくいということがよく指摘されています。また、実際に村木さんはこうしたリークに対して国賠訴訟を起こしています(14年3月に敗訴確定)。しかし、そもそも大前提として新聞記事上、その記事の内容が誰の主張を反映しているのか、というのがわからないのです。

 

ここで、あえて「主張」という言葉を使わせてもらいました。

この厚労省の関係者が話したとか、団体の代表が話した、という事実の体験は記事の読者はもちろん記者もタイムリーに共有したものではありません。完全な伝聞です。しかも、特捜部という捜査機関が彼らの業務の目的において関係者から聞き出した内容なのです。記者が直接確認していない以上、この内容が事実であることに責任を負っているのは捜査機関側であり、その意味で(垂れ流している内容は事実であるという)捜査機関の「主張」と考えるべきなのです。こうした捜査機関から記者が聞いてきた情報というのは、それ自体を記者が検証するということはまずありません。それで記事として成立してしまいます。仮に捜査がおかしかったとしても、捜査機関がマスコミ側に流してきた、捜査機関がどう事件を取り扱っているか、という捜査機関側の情報(主張)そのものは誤っていないからです。

記事の書き方というのも、新聞社側が事件の真相を裏付け、結果に責任を負ってしまうような書き方にならないよう、捜査機関の調べ自体がニュースであることを最初の方で謳っているわけです。そんなこと意識できる読者はまずいないと思いますが。

特に見出しを見たときに記事は完全に特捜部の立場で書かれています。厚労省関係者が話したかどうか(確かに、特捜部の誘導尋問で供述させられたわけですが)自体が伝聞情報なのに、それが絶対的な事実のように受け取れますね。

一連の村木さんに関する報道について朝日新聞は後に検証記事を書いています。その中で下記のようなくだりがあります。

 

2010年9月11日 朝日新聞朝刊

(前略)ただ、一方の公権力である検察をチェックできたのか、捜査情報の裏付けは十分だったのか。その批判には謙虚に耳を傾けたいと思います。

朝日新聞社が設けている報道や取材のルールに沿って、容疑者・被告側の主張は可能な限り掲載してきました。元局長が否認していることを記事に盛り込み、見出しにとるなどの配慮もしてきました。しかし、その後の公判で、元局長の関与を認めたとされる元部下らの供述調書の大半が「検事の作文」として証拠採用されない事態までは、予測できませんでした。

 

 いやいや、待ってくださいよ。「捜査情報の裏付け」など普段からしてないでしょ。逆にそんなことしてたら、99パーセントの捜査過程は記事にできなくなってしまいます。だから、「謙虚に耳を傾ける」だけしかできません。ところが、そのことにも責任を負っている、つまりメディア側としても単なる捜査機関からの伝聞ではなく、真相を自ら究明して伝える責任がある、ひいては他のニュースでは彼らの責任において真相を伝えているかのような反省文になっています。

ここが、メディアが説明をあいまいに済ませて、結果として読者にとっては滅茶苦茶わかりづらいことになっているところなのです。本当なら、こんなことを言ってしまった次の日から、すべての捜査記事において独自の裏付け調査をすべきですが、そんなことは現在までなされていません。そして、今でも捜査情報の記事は、申し訳程度に情報元が示された上で、全体としてはさも、伝聞情報が事実であるかのような印象を与える形態をとっているのです。本当は自分で調べて責任をとるつもりはないし、また実質的に責任を被ってないのに、ある種メディアの意義を顕示するために真実に責任を負って事実を検証しているかのような記事の書き方をし、また自分たちの立場をそう説明しているのですね。