言明とアサーションまとめ②ニュースの正体
言明とアサーションのまとめの続きです。
そもそもなぜ、監査の考え方がメディア情報の信頼性を検討する上で援用できるのでしょうか。このブログの初めの方で一つ一つ説明してきましたが、それは会計とは何かということから明らかです。会計の定義は諸説ありますが、ここでは下記の定義を取り上げます。
会計とは「財産の管理行為の受託者が自分のおこなった管理行為の顛末をその委託者にたいして説明すること」
英語の会計「accounting」が説明するという意味の「account」から派生しているように会計とは説明ツールであり、だからこそ財務諸表という言明(statement)に結びつくといえるでしょう。
言明とアサーション(言明の意味)の関係について述べます。
ある言明が正しいという前提に立つとき、その言明は関連するアサーションについて正しい情報を与えています。
前回取り上げた借入金だけでなく、財務諸表のあらゆる情報(現金とか売上とかの勘定科目)にはアサーションが含まれます。会計監査で使われるアサーションについて、会計監査の規範である監査基準では次のようなアサーションを列挙しており、実務でもほぼ同様のアサーションが使われています。
実在性
網羅性
権利と義務の帰属
評価の妥当性
期間配分の適切性
表示の妥当性
例えば売上ですと、売上の実在性(架空売り上げでない)とか、網羅性(すべての売上が計上されている)とか、期間配分の適切性(翌期の売上が当期に計上されてない)といったアサーションが選択され、監査の検証対象となるわけです。
以上の理解をもとにメディア情報の問題点は以下の2つに集約されます。
①アサーション(情報の意味)が不明
端的にいえば、新聞の1面のトップにある記事が掲載される。例えばそれが政治家が収賄容疑で逮捕されたという記事だったとする。重要なのは、新聞社がその情報の意味(アサーション)として何を保証しているのかが見えない、ということです。この場合、政治家が逮捕された、というのが実在する(実在性)というほかに、明らかに普通は読者はこの政治家はクロだろうな、とまあ思うわけです。これは「評価」というアサーションが読んでいる側からすれば生じているといえます。当然、この「評価」を担保する裏付けがあってこのような報道になっているのだろう、と読者は思うでしょう。あるいはこの政治家サイド(本人や弁護士)の意見が反映されていれば「公平性」というアサーションが満たされるといえるでしょう。公平性は会計監査にはでてきませんが、メディア情報には必要というか、メディア自身が「公平な報道」をしている、という建前になっています。であれば、「公平性」を満たしているぞ、というアサーションが記事に成立してないといけないですね。
現状メディアの特徴は散々当局の宣伝をしながら、「評価」のアサーションに責任は持たない、といってよいでしょう。特に事件報道では、基本的には単に当局の動き、主張を伝えているスタンスを盾に、自ら評価の形成に寄与しているという認識は、故意にか無意識にかわかりませんが、していません。
さらに、これがまた重要ですが、会計には「表示の妥当性」というアサーションがあります。これは会計のルールブックに決められたとおりに、情報が整理されている(貸借対照表や損益計算書の科目が適切な科目で適切な順番に並んでいるなど)ということです。
メディア情報において情報の整理(配列や見出しの取り方など)が重要なのは言うまでもないことですね。新聞社には「整理部」という正に記事の整理をする部署があります。
一般に一面が大事で、各ページのトップから肩(左上)から順に重要で、といった程度のルールは公表されていますが、読み手からすればそれ以上の整理のルールはよくわかりません。新聞でいえばその日の「表示」(配列や見出し、あるいはそもそもその日のニュースとして何が選択され何が捨てられたのか、そしてその基準)がなぜそうなったのか、読者には伺いしれないことです。
②二重の言明(アサーション)
こちらはこれまで何度も説明してきましたね。
簡単にいうと取材対象の言明とメディアの言明がごちゃごちゃになっているということです。
メディアが取材対象そのものや言明の内容を選び、それがメディアの言明となる。さらに、メディアの言明の意味(アサーション)を受け手が判断するしかないので(特にメディア情報の場合、意味を理解するためのルールがない)さらに意味が、メディアが保証している範囲から外れて理解される。
これがニュースの正体です。私たちは何を事実として受け入れているのでしょうか。
(2020年4月4日編集)