意味から始める情報学

なぜ、マスメディアの情報はイマイチ信頼できないのか。それは意味がわからないからだ

ファクトチェックー二重のアサーション

少し前のことになりますが、yahoo ニュースに次のような記事が出ていました。

 

news.yahoo.co.jp

 

朝日新聞および東京新聞で最近始まった「ファクトチェック」の取組みに対する論評です。昨年秋の米大統領選を契機に、特にトランプ候補(現大統領)の言説を巡って、その真偽を確かめるために米メディアや対立候補ヒラリー・クリントン氏らがファクトチェックのサイトを立ち上げ、その言説が確かな事実に基づくものなのかを検証する取組みが盛り上がりました。朝日や東京新聞の取組みはそれらに続いたもので、朝日新聞はファクトチェックについて、

政治からの発表内容を確認し、「正しい」「一部誤り」「誇張」などと判断するもの

2016年10月24日 朝刊

 

政治家の発言内容を確認し、「間違い」「誇張」など、その信ぴょう性を評価するジャーナリズムの手法(中略)最近では、ネット上の「偽ニュース」への対抗策としても注目されている

2016年2月6日 朝刊

などと説明し、実際に政治家の発言について「誇張」とか「一部誤り」といった評価を下しています。

 

今回はこのファクトチェックについてのGoHooの記事を取り上げ、ファクトチェックの登場が明らかにする現状のメディア情報の問題点を「二重のアサーション」の観点から論じてみます。「二重のアサーション」についてはこれまでのブログでも触れましたが、本記事でまとめました。

 

 GoHoo(ゴフー)は、マスコミの報道を検証するウェブサイトで、yahooニュースにもアップされているため、記事を目にしたことがある人も多いと思います。このページの取組みには、私も報道の仕方に疑問を持ち続けてきた一人の人間として、非常に関心をもっております。このサイトのように網羅的に日々のニュースの検証を行うことは、並大抵のことではありません。基本的に記事の執筆は、同ページを運営する一般社団法人 日本報道検証機構代表の楊井人文氏がお一人でされているようで、その熱意と労力には頭が下がる思いです。

さて、今回の大手新聞社が始めたファクトチェックについての氏の批判は主に2点です。

①ファクトチェックの対象が事実関係を超えて、政治家の意見の評価を含んでしまっていること

②上記にあげた新聞社自らが定義するファクトチェックの対象に、メディア自身が含められていない、ということです。

楊井氏は②の点について

第二に、ファクトチェックの対象は、政治家の言説に限らない。対象となるのは、事実関係に言及した言説・言明である。当然、メディアの報道も有識者の言説も含まれる。

そもそもファクトチェッカー(ファクトチェックを専門とする職種)の起源は、1920年代の米国の雑誌だと言われている。伝統的に、メディアが自らの記事に事実関係の誤りがないかどうかをチェックすることであり、現在もそれは変わらない。たとえば、米国のキャリア支援サイト「Study.com」では、ファクトチェッカーは「メディアの報道や公表された記事の情報を検証する」職業と紹介されている。

ところが、朝日新聞の説明では「政治家らの発言内容」としか書かれていない。「ら」と含みをもたせているが、自分たちメディアの報道がファクトチェックの対象になることを隠そうとしているのかと勘ぐられてもしかたない。 

 

と言います。

 

また、楊井氏はアメリカでファクトチェックが盛り上がった昨秋に、いち早くファクトチェックについて記事を投稿しており、ファクトチェックとは何であるのか、下記の記事も参考になります。

 

 米大統領選で注目されるファクトチェッカー 世界にはこれだけのサイトがある(楊井人文) - 個人 - Yahoo!ニュース

 

ここで、ファクトチェックの対象が取材対象たる政治家等に限られるのか、もしくはマスメディアの報道自体も含まれるのか、いずれにしてもその対象は「言明」であるということになります。

このブログで、言明が会計監査(=情報の信頼性の検証)の前提となる重要な概念であることを説明し、言明とは「真偽または確からしさを決定することのできる主語と述語からなる文」とし、「真偽を決定(証明)できるのは、われわれが当該言明の意味(アサーション)を知っているから」であると、監査論の鳥羽至英氏の著書を引用してご紹介しました。 

alvar.hatenablog.com

 

 

 この言明の定義は、楊井氏が想定する言明の語義と大きく相違していないと思われます。

 

したがって、情報の信頼性を検討する際には、言明の意味を考えることが必要であり、その前提として情報が誰の言明であるのか明らかにすることがまず必要となるのです。

 

ここで、メディアの報道は二重の言明で成立していることを、吉田調書問題をとりあげた前回までのブログでお伝えしてきました。

 

alvar.hatenablog.com

 

この報道は吉田氏の証言について朝日新聞が記事化して読者に伝えていると考えることができるでしょう。これはどういうことかというと、二重に言明が存在しているということになります。

①吉田氏の証言

朝日新聞の吉田調書の報道

 

 

 改めて、メディア情報の二重の言明についてまとめてみましょう。

第一の言明とは、報道が伝えている取材対象(行為主体)そのものの言明であり、

第二の言明とは、報道が第一の言明を編集し最終的に情報の受け手に伝える表現形態そのものです。

 

模式図にすると↓のようになります。

内側の円が第一の言明、外側の円が第二の言明です。

 f:id:Alvar:20200315000234p:plain

 

※「表示」とは最終的な表現形態そのもので、伝達内容や表現方法を含んだものとお考え下さい。用語自体は会計学の術語で、財務諸表の最終的な表現形態を指します。

 

繰り返しこのブログでお伝えしているように、基本的にメディアが責任をもってきた(責任をとってきた)のは、第二の言明の方です。すなわち、第一の言明の真偽はその言明を行った行為主体そのものが責任をもつ、というのがこれまでのメディアの在り方でした。メディアの在り方というのは、つまるところ、それが我々の情報空間の在り方だったということです。例えば、STAP細胞の不正論文問題に対して、当初は小保方氏を持ち上げたメディアが、その論文が不正に作成されたとわかったとしても、メディアの側が報じた責任をお詫びするなどということはあり得ないことなのです。この場合のメディアはどちらかと言えば被害者側の立場をとるのです。

 

私が、ファクトチェックの取組みに関して注目したいのは次のことです。

①第一の言明に対してメディアがどこまで責任をもつのか

②第二の言明に対するチェックをどのようにモデル化していくか

 

先の二重の言明について現状のファクトチェックは第一の言明に向いています。

 

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①第一の言明に対してメディアがその真偽を語るということは、その取組自体が第二の言明に含まれていくことになります。結果として、彼らのファクトチェックの適切性が問われることはもとより、これまで責任を負うことがなかった(あるいは責任を曖昧にしてきた)第一の言明の真偽についても責任を負うことになる可能性があります。例えば小保方氏の不正論文のような問題を想起した場合、論文発表に際してメディアが自らファクトチェックを行っていくことや、仮に事後的に不正が明らかになった場合には、「ファクトチェックがちゃんとしてなかった」と不正を看過して報道したメディア自身の責任が問われていく、という状況も想定されます。

 

②「不十分」「誇張」あるいは「もっと説明が必要です」などと政治家の発言を論評することは、当然その矛先がメディア自身にも向くことをメディアは自覚していることでしょう。

その前提としてどのようなファクトチェックの評価の基準を自分たちに向けるのか。もちろん他者に向けている現状のファクトチェックの評価が曖昧で確たる基準もないのであれば、そもそも自分たちに向ける基準もない、というお粗末な結果となるでしょう。

 

ファクトチェックへの取組みは、ファクトチェックという機能が第一の言明にはほぼ存在しなかったのであり、第二の言明に対してもいわゆる校閲という限られた意味での事実確認というレベルでしか存在しなかった、ということを明らかにしています。それはとりも直さず、メディアの報道自体の意味(アサーション)がそもそも明らかにされない状況を許してきたことでもあります。

いずれの問題についても、メディア自身が責任の範囲=言明の範囲を明確化することが、今後重要になってきます。