意味から始める情報学

「マスゴミ」。なぜ、メディアが供給する情報はイマイチ信頼できないのか。それは意味がわからないからだ

言明とアサーションまとめ②ニュースの正体

言明とアサーションのまとめの続きです。

そもそもなぜ、監査の考え方がメディア情報の信頼性を検討する上で援用できるのでしょうか。このブログの初めの方で一つ一つ説明してきましたが、それは会計とは何かということから明らかです。会計の定義は諸説ありますが、ここでは下記の定義を取り上げます。

 

会計とは「財産の管理行為の受託者が自分のおこなった管理行為の顛末をその委託者にたいして説明すること」

歴史にふれる 会計学 (有斐閣 友岡賛 1996)

 

英語の会計「accounting」が説明するという意味の「account」から派生しているように会計とは説明ツールであり、だからこそ財務諸表という言明(statement)に結びつくといえるでしょう。

 

言明とアサーション(言明の意味)の関係について述べます。

簡単にいうと、言明はアサーションの束で構成されているといえます。

前回取り上げた借入金だけでなく、財務諸表のあらゆる情報(現金とか売上とかの勘定科目)にはアサーションが含まれます。会計監査で使われるアサーションについて、会計監査の規範である監査基準では次のようなアサーションを列挙しており、実務でもほぼ同様のアサーションが使われています。

実在性

網羅性

権利と義務の帰属

評価の妥当性

期間配分の適切性

表示の妥当性

 

例えば売上ですと、売上の実在性(架空売り上げでない)とか、網羅性(すべての売上が計上されている)とか、期間配分の適切性(翌期の売上が当期に計上されてない)といったアサーションが選択され、監査の検証対象となるわけです。

 

以上の理解をもとにメディア情報の問題点は以下の2つに集約されます。

アサーション(情報の意味)が不明

端的にいえば、新聞の1面のトップにある記事が掲載される。例えばそれが政治家が贈収賄容疑で逮捕されたという記事だったとする。重要なのは読み手がその情報をどう判断・評価するか、という過程において必要な情報が何か、あるいは必要な情報がないという前提について読み手と発信側に合意がない、ということです。この必要な情報が正にアサーションなのです。この場合、政治家が逮捕された、というのが実在する(実在性)というほかに、明らかに普通は読者はこの政治家はクロだろうな、とまあ思うわけです。これは「評価」というアサーションが読んでいる側からすれば生じているといえます。当然、この「評価」を担保する裏付けがあってこのような報道になっているのだろう、と読者は思うでしょう。あるいはこの政治家サイド(本人や弁護士)の意見が反映されていれば「公平性」というアサーションが満たされるといえるでしょう。公平性は会計監査にはでてきませんが、メディア情報には必要というか、メディア自身が「公平な報道」をしている、という建前になっています。であれば、「公平性」を満たしているぞ、というアサーションが記事に成立してないといけないですね。

現状メディアの特徴は散々当局の宣伝をしながら、「評価」のアサーションに責任は持たない、といってよいでしょう。読者の印象操作が問題になることも稀にありますが、基本的には単に当局の動き、主張を伝えているというスタンスを盾に自ら評価の形成に寄与しているという認識は、故意にか無意識にかわかりませんが、していません。

さらに、これがまた重要ですが、会計には「表示の妥当性」というアサーションがあります。これは会計のルールブックに決められたとおりに、情報が整理されている(貸借対照表や損益計算書の科目が適切な科目で適切な順番に並んでいるなど)ということです。

メディア情報において情報の整理(配列や見出しの取り方など)が重要なのは言うまでもないことですね。新聞社には「整理部」という正に記事の整理をする部署があります。

一般に一面が大事で、各ページのトップから肩(左上)から順に重要で、といった程度のルールは公表されていますが、読み手からすればそれ以上の整理のルールはよくわかりません。新聞でいえばその日の「表示」(配列や見出し、あるいはそもそもその日のニュースとして何が選択され何が捨てられたのか、そしてその基準)がなぜそうなったのか、読者には伺いしれないことです。これが、アサーション不在、およびアサーション検証不明、の問題というやつです(いま、名付けました、笑)。

 

②二重の言明(アサーション

こちらはこれまで何度も説明してきましたね。

簡単にいうと取材対象の言明とメディアの言明がごちゃごちゃになっているということです。図示すると下記のようになります。

ごちゃごちゃになっている、を別の見方をするとメディアが取材対象の言明(アサーション)を選び、それがメディアの言明となる。さらに、メディアの言明の意味(アサーション)を受け手が判断するしかないので(特にメディア情報の場合、意味を理解するためのルールがない)さらに選ばれる。

これがニュースの正体です。私たちは何を事実として受け入れているのでしょうか。

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情報の正体ー言明とアサーションのまとめ①

今回は言明とアサーションについてまとめてみたいと思います。

といいますのも、この二つの用語は本ブログの鍵概念である上に私自身が言葉の使い方をはっきりさせる必要があると感じたからです。前々回と前回のブログで無意識のうちに「二重の言明」「二重のアサーション」という言い回しを特に区別することなく使っておりました。用語を混同したかと思い、訂正することも考えましたが、結論としては両方の言い方が可能で、前者の下位概念が後者であり、ほぼ同義で使うことも可能であろうと判断しました。したがって、訂正することはしないのですが、正直自分もちゃんと区別できていなかったし、読む人に疑念を抱かせるおそれがあるので、ここで整理致します。それは取りも直さず情報の正体を明らかにすることになります。

 まずは定義を確認しましょう。

 言明(Statement)とは「真偽または確からしさを決定することのできる主語と述語からなる文

であり、

(言明)の真偽を決定(証明)できるのは、われわれが当該言明の意味(アサーション)を知っているからである

 

いかなる言明にも、それを作成した当事者(通常の場合、企業の経営者)の主張が含まれている。財務諸表監査において監査人が関心をもつアサーションとは、財務諸表の作成者である経営者の会計上の主張であり、会計的言明(accounting statement)としての財務諸表に含められた会計上の意味である。

いずれも(鳥羽至英ら共著「財務諸表監査」国元書房、2016)

 具体的なアサーションは、例えば貸借対照表に借入金100万円が計上されていれば、期末日の借入金は100万円ですべてであり、他に借入金はない(網羅性)、とか、借入金に関する利息1万円が損益計算書に計上されていれば、利息1万円はすべて当期に帰属する(前期や翌期に帰属する利息は計上されていない、期間帰属の適切性)といった形で表されるのでした。

 

そして、それらのアサーションは経営者の主張といいながら、直接的に経営者が表明しているものでもありませんでした。情報の信頼性を保証する監査人が自ら識別するものであり、アサーションがどの程度確からしいか検証するのが監査なのでした。

 

では、なぜ監査人はアサーションを特定できるのでしょうか。それは会計には公のルール(一般に公正妥当と認められた企業会計の基準)があり、経営者はそのルールに沿って財務諸表を作成することが求められるからです。経営者が適正に財務諸表を作っていれば当然にそのルールと合致するはずであるため、信頼性を確かめるには、財務諸表がそのルールに沿っているとの仮定(=経営者の主張)を検証すればよいのです。この仮定がアサーションになるのです。

 

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問題はメディア情報です。メディア情報の作られ方にルールは果たしてあるでしょうか?

この問題についてはまた詳解したいと思いますが、一義的にはないといってしまってよいと思います。なぜなら、少なくとも情報の作り手、受け手にとって共有できる「これ」と言えるルールブックはないからです。したがって、メディア側は「信頼できる情報」を提供していると主張しても、意味(アサーション)を受け手は見いだせないのです。この問題については郵便不正事件を題材に触れました。

この問題で特に伝えたかったのは、事件報道は警察検察の捜査動向を主体として情報発信しているだけであり、被疑者の容疑事実の確からしさなどとは全く関係がないということです。そのような評価をメディアはわざわざ自分の手で行っていません。つまり、逮捕報道があっても容疑者の容疑事実は確かであるとか、確かでありそうだとか、といったアサーションは含まれていません(警察検察側の主張としてはあると思いますが)。

 

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(この図についての詳細はまた次回説明致します)

一番メディアの欺瞞を感じるのはメディア側が「メディリテラシー」の重要性を強調することです。

メディアリテラシー」については色々な定義があると思いますが、ざっくりと、「メディアがもたらす情報を正しく理解し、活用する」と考えたいと思います。

 

なお、はてなキーワードにも解説がありました。

d.hatena.ne.jp

 

メディアが取り組むメディアリテラシーの向上については、例えば日本新聞協会が設立したNIE「新聞に教育を」が行っている教育活動として、特定のテーマについて複数社の新聞を比較読みすることなどが挙げられます。また、メディアに関する論評の中には、メディアリテラシーの向上が課題であるかのような発言もたびたび目にします。新聞社の設立する紙面検証委員会の委員もそんな趣旨の発言をしていたような記憶が、、

 

しかし、まず情報の意味、例えば記事のどこからどの部分がどの情報源の情報を元にしているのか、どのように情報を選択しているのか(単に重要だから取り上げたとかではなく、報道のプロセスを示すこと。ただこれだけのことがどこにも書いてない)、結局伝えているメディア側はそのニュースをどのように評価しているのか(あるいは評価していないのか)をはっきりさせる必要があるでしょう。

メディアの情報開示について食品に例えるならば、添加物について一切の表示をせずに、食の安全を消費者の知識と懐疑心に100パーセント依存させているようなものです。

 

まとめの続きを次回書きます。

 

 

ファクトチェックー二重のアサーション

少し前のことになりますが、yahoo ニュースに次のような記事が出ていました。

 

news.yahoo.co.jp

 

朝日新聞および東京新聞で最近始まった「ファクトチェック」の取組みに対する論評です。昨年秋の米大統領選を契機に、特にトランプ候補(現大統領)の言説を巡って、その真偽を確かめるために米メディアや対立候補のヒラリー・クリントン氏らがファクトチェックのサイトを立ち上げ、その言説が確かな事実に基づくものなのかを検証する取組みが盛り上がりました。朝日や東京新聞の取組みはそれらに続いたもので、朝日新聞はファクトチェックについて、

政治からの発表内容を確認し、「正しい」「一部誤り」「誇張」などと判断するもの

2016年10月24日 朝刊

 

政治家の発言内容を確認し、「間違い」「誇張」など、その信ぴょう性を評価するジャーナリズムの手法(中略)最近では、ネット上の「偽ニュース」への対抗策としても注目されている

2016年2月6日 朝刊

などと説明し、実際に政治家の発言について「誇張」とか「一部誤り」といった評価を下しています。

 

今回はこのファクトチェックについてのGoHooの記事を取り上げ、ファクトチェックの登場が明らかにする現状のメディア情報の問題点を「二重のアサーション」の観点から論じてみます。「二重のアサーション」についてはこれまでのブログでも触れましたが、本記事でまとめました。

 

 GoHoo(ゴフー)は、マスコミの報道を検証するウェブサイトで、yahooニュースにもアップされているため、記事を目にしたことがある人も多いと思います。このページの取組みには、私も報道の仕方に疑問を持ち続けてきた一人の人間として、非常に関心をもっております。このサイトのように網羅的に日々のニュースの検証を行うことは、並大抵のことではありません。基本的に記事の執筆は、同ページを運営する一般社団法人 日本報道検証機構代表の楊井人文氏がお一人でされているようで、その熱意と労力には頭が下がる思いです。

さて、今回の大手新聞社が始めたファクトチェックについての氏の批判は主に2点です。

①ファクトチェックの対象が事実関係を超えて、政治家の意見の評価を含んでしまっていること

②上記にあげた新聞社自らが定義するファクトチェックの対象に、メディア自身が含められていない、ということです。

楊井氏は②の点について

第二に、ファクトチェックの対象は、政治家の言説に限らない。対象となるのは、事実関係に言及した言説・言明である。当然、メディアの報道も有識者の言説も含まれる。

そもそもファクトチェッカー(ファクトチェックを専門とする職種)の起源は、1920年代の米国の雑誌だと言われている。伝統的に、メディアが自らの記事に事実関係の誤りがないかどうかをチェックすることであり、現在もそれは変わらない。たとえば、米国のキャリア支援サイト「Study.com」では、ファクトチェッカーは「メディアの報道や公表された記事の情報を検証する」職業と紹介されている。

ところが、朝日新聞の説明では「政治家らの発言内容」としか書かれていない。「ら」と含みをもたせているが、自分たちメディアの報道がファクトチェックの対象になることを隠そうとしているのかと勘ぐられてもしかたない。 

 

と言います。

 

また、楊井氏はアメリカでファクトチェックが盛り上がった昨秋に、いち早くファクトチェックについて記事を投稿しており、ファクトチェックとは何であるのか、下記の記事も参考になります。

 

 米大統領選で注目されるファクトチェッカー 世界にはこれだけのサイトがある(楊井人文) - 個人 - Yahoo!ニュース

 

ここで、ファクトチェックの対象が取材対象たる政治家等に限られるのか、もしくはマスメディアの報道自体も含まれるのか、いずれにしてもその対象は「言明」であるということになります。

このブログで、言明が会計監査(=情報の信頼性の検証)の前提となる重要な概念であることを説明し、言明とは「真偽または確からしさを決定することのできる主語と述語からなる文」とし、「真偽を決定(証明)できるのは、われわれが当該言明の意味(アサーション)を知っているから」であると、監査論の鳥羽至英氏の著書を引用してご紹介しました。 

alvar.hatenablog.com

 

 

 この言明の定義は、楊井氏が想定する言明の語義と大きく相違していないと思われます。

 

したがって、情報の信頼性を検討する際には、言明の意味を考えることが必要であり、その前提として情報が誰の言明であるのか明らかにすることがまず必要となるのです。

 

ここで、メディアの報道は二重の言明で成立していることを、吉田調書問題をとりあげた前回までのブログでお伝えしてきました。

 

alvar.hatenablog.com

 

この報道は吉田氏の証言について朝日新聞が記事化して読者に伝えていると考えることができるでしょう。これはどういうことかというと、二重に言明が存在しているということになります。

①吉田氏の証言

朝日新聞の吉田調書の報道

 

 

 改めて、メディア情報の二重の言明についてまとめてみましょう。

第一の言明とは、報道が伝えている取材対象(行為主体)そのものの言明であり、

第二の言明とは、報道が第一の言明を編集し最終的に情報の受け手に伝える表現形態そのものです。

 

模式図にすると↓のようになります。

内側の円が第一の言明、外側の円が第二の言明です。

 

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※「表示」とは最終的な表現形態そのもので、伝達内容や表現方法を含んだものとお考え下さい。用語自体は会計学の術語で、財務諸表の最終的な表現形態を指します。

 

繰り返しこのブログでお伝えしているように、基本的にメディアが責任をもってきた(責任をとってきた)のは、第二の言明の方です。すなわち、第一の言明の真偽はその言明を行った行為主体そのものが責任をもつ、というのがこれまでのメディアの在り方でした。メディアの在り方というのは、つまるところ、それが我々の情報空間の在り方だったということです。例えば、STAP細胞の不正論文問題に対して、当初は小保方氏を持ち上げたメディアが、その論文が不正に作成されたとわかったとしても、メディアの側が報じた責任をお詫びするなどということはあり得ないことなのです。この場合のメディアはどちらかと言えば被害者側の立場をとるのです。

 

私が、ファクトチェックの取組みに関して注目したいのは次のことです。

①第一の言明に対してメディアがどこまで責任をもつのか

②第二の言明に対するチェックをどのようにモデル化していくか

 

先の二重の言明について現状のファクトチェックは第一の言明に向いています。

 

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①第一の言明に対してメディアがその真偽を語るということは、その取組自体が第二の言明に含まれていくことになります。結果として、彼らのファクトチェックの適切性が問われることはもとより、これまで責任を負うことがなかった(あるいは責任を曖昧にしてきた)第一の言明の真偽についても責任を負うことになる可能性があります。例えば小保方氏の不正論文のような問題を想起した場合、論文発表に際してメディアが自らファクトチェックを行っていくことや、仮に事後的に不正が明らかになった場合には、「ファクトチェックがちゃんとしてなかった」と不正を看過して報道したメディア自身の責任が問われていく、という状況も想定されます。

 

②「不十分」「誇張」あるいは「もっと説明が必要です」などと政治家の発言を論評することは、当然その矛先がメディア自身にも向くことをメディアは自覚していることでしょう。

その前提としてどのようなファクトチェックの評価の基準を自分たちに向けるのか。もちろん他者に向けている現状のファクトチェックの評価が曖昧で確たる基準もないのであれば、そもそも自分たちに向ける基準もない、というお粗末な結果となるでしょう。

 

ファクトチェックへの取組みは、ファクトチェックという機能が第一の言明にはほぼ存在しなかったのであり、第二の言明に対してもいわゆる校閲という限られた意味での事実確認というレベルでしか存在しなかった、ということを明らかにしています。それはとりも直さず、メディアの報道自体の意味(アサーション)がそもそも明らかにされない状況を許してきたことでもあります。

いずれの問題についても、メディア自身が責任の範囲=言明の範囲を明確化することが、今後重要になってきます。

 

吉田調書報道ー「命令」と「撤退」誰が決めるか、決めたか

前回のブログの続編になります。お伝えしたように、あえて吉田調書報道は問題なかったのではないか?という視点から考察します。吉田調書報道問題の内容と「言明」「アサーション」からの考察については前回のブログを参照頂ければと思います。

 

 

alvar.hatenablog.com

 

この報道で問題になったのは、つまるところ一面トップの大見出しで「所長命令に違反 原発撤退」と打った朝日新聞の「表現」が、吉田調書(=吉田氏の言明)を誤って伝えていたのではないか、ということです。さらに本文で「東日本大震災4日後の2011年3月15日朝、第一原発にいた所員の9割にあたる約650人が吉田氏の待機命令に違反し、10キロ南の福島第二原発へ撤退していた。その後、放射線量は急上昇しており、事故対応が不十分になった可能性がある」と伝えました。これは、吉田調書に対する朝日新聞の「評価」に関する問題です。

 

まず、見出しから考えてみましょう。

朝日新聞が設置する「報道と人権委員会」(PRC)は「命令に違反」した事実があったか、そして命令に違反した「撤退」はあったのかの2つに分けて検討しています。

まず前者の問い―「命令に違反」はあったか―ですが、前回お伝えしたように、この表現の根拠となったのは吉田氏の次の証言でした。

「本当は私、2F(福島第二)に行けと言っていないんですよ。(筆者中略)福島第一の近辺で、所内に関わらず、線量の低いようなところに1回退避して次の指示を待てと言ったつもり」

しかし、実際には吉田氏自ら「伝言ゲーム」と語っていたように、うまく所員には伝わっていなかったことが、その後の所員への取材でも明らかになりました。取材を受けた所員によれば、吉田所長の発言を直接聞く機会はなく、上司に指示されて第二原発行きのバスに乗ったが、その前日に話が出ていた第二原発に行くという方針が維持されたと受け止めたというのです。さらに、吉田氏の証言では「よく考えれば2Fに行った方がはるかに正しいと思ったわけです」と吉田氏自身が第二原発に行ったことを肯定していました。

したがって、PRCは吉田氏の指示は「所員の多くに的確に伝わっていた事実は認めることができない」「所員が第二原発への退避をも含む、命令と理解することが自然であった」とし、実質的な「命令」と評することができる指示とは認められない、としました。

 

これって、ちょっと違和感がありませんか?すなわち①指示が的確に伝わっていなかったこと②結果的に指示が適切でなかったこと、をもって命令はなかった、というわけです。

「命令」かどうかは、指示が適切に届いているか、指示が適切であったと指示を出した人が過去を振り返って評価しているかで決まるものなのでしょうか?私自身の見解としては命令と呼ぶか指示と呼ぶかは特段問題ではなく、「違反」という言い方に問題があったのではないかと思います。指示が届いていなかったのに、「違反」はさすがにおかしいですね。

 

「撤退」という表現について、記事を担当した記者らは、「一度第二原発に退避すると簡単に戻れないこと」や「第一原発に残ったのは69人にすぎなかったこと」から、「退避」という言葉を使ったと説明しています。これに対してPRCは、「退避」と「撤退」では読者の受け止め方が違ううえ、第一原発にはまだ本部機能があったと指摘。「命令違反」に「撤退」を重ねた見出しについて、「否定的な印象をことさら強めており、読者に所員の行動への非難を感じさせる」としました。

うーん。これも何か結論ありきな気がしませんか?もちろん、撤退の方がネガティブなイメージを受けますが、担当記者が主張したように「第一原発に残ったのは69人にすぎなかったこと」(所員のうち9割の690人が退避)を「撤退」と表現するのは、それほど無理はないように思います。むしろ、吉田氏自身が「はるかに正しい」と振り返った第二原発への「退避」(もしくは「撤退」)の必要性がなぜ生じていたのかが問題であり、それによって「退避」だろうと「撤退」だろうと、本来はさほど問題にならないはずです。

 

さらに、記事本文では「命令違反して退避」の結果、「事故対応が不十分になった可能性がある」と伝えました。実は朝日新聞の検証記事にもPRCの見解要約にも、この「事故対応が不十分になった可能性がある」という評価についての是非は記載されていません。これは究極、朝日新聞の言明としての「評価」であり、この評価は信頼できるものだという「アサーション」がなお成立しうるということでしょうか。

 

以上のように、「違反」したという表現は問題があったかと思いますが、その他の「命令」や「撤退」、あるいは「事故対応が不十分になった可能性がある」という表現については、私は「アリ」だったと思います。でもそんなことは吉田氏は一言も述べてないんだ、という批判はあるでしょう。

だからこそ、二重のアサーションをはっきりさせる必要があると強調しておきます。つまり、今回問題になったような表現はすべてが朝日新聞自らの言明における「評価」「表現」であり、吉田氏自身のものではない。そして、オリジナルの記事にも、吉田氏自身がそのような評価をしたとか、表現をしたとは書いてないのです。

しかし、これは一般の読者にはわかりづらい。

情報を伝える側が情報を受け取る側に、誰の言明かをわかり易く表示することが最大の課題といえると思います。

 

「言明」「アサーション」を使って吉田調書報道問題を読み解く

ここまでお伝えしてきた「言明」と「アサーション」という概念を使って、近年問題になった報道事例を分析していきたいと思います。今回は朝日新聞の吉田調書報道を取り上げます。

 

問題の概要

朝日新聞は2014年5月20日朝刊の1面トップで「所長命令に違反 原発撤退」と見出しを付け、独自に入手した東京電力福島第一原発所長で事故対応の責任者だった吉田昌郎氏(故人)の証言(吉田調書)によると「東日本大震災4日後の2011年3月15日朝、第一原発にいた所員の9割にあたる約650人が吉田氏の待機命令に違反し、10キロ南の福島第二原発へ撤退していた。その後、放射線量は急上昇しており、事故対応が不十分になった可能性がある」などと報道しました。

ところが、その後の9月11日には、同調書の内容からは所長命令に違反し、所員が原発から撤退したとしたのは誤りであったとして、記事を取り消しました。木村伊量社長が記者会見を開き、読者と東電関係者に謝罪するまでに発展しました。当時の朝日新聞は直前の8月にも慰安婦問題に関する記事を取り消しており、再び大きなダメージを受けたのでした。

 

吉田調書によると吉田氏は「本当は私、2F(福島第二)に行けと言っていないんですよ。(筆者中略)福島第一の近辺で、所内に関わらず、線量の低いようなところに1回退避して次の指示を待てと言ったつもり」となどの発言があったといいます。そして、実際に所員の9割は第二原発に行ったため、担当記者はこれを「命令に違反して撤退」と原稿に書き、見出しにもなったのです。ところが、この指示が所員の多くに的確に伝わってないと考えられることがわかったのです。その後の追加取材で実際に退避した所員の話では、吉田所長の発言を直接聞く機会はなく、上司に指示されて第二原発行きのバスに乗ったが、その前日に話が出ていた第二原発に行くという方針が維持されたと受け止めた、というのです。

加えて、吉田氏自身が同調書の中で実際には「2Fに行けとは言っていない」の後に「ここがまた伝言ゲームのあれのところで、行くとしたら2Fかという話をやっていて、退避をして、車を用意してという話をしたら、伝言した人間は、運転手に、福島第二に行けという指示をしたんです」と続けており、さらに「よく考えれば2Fに行った方がはるかに正しいと思ったわけです」と吉田氏自身が第二原発に行ったことを肯定していたことがわかったのです。

これらの吉田氏の証言は5月20日の紙面には掲載されませんでした(デジタル版には掲載)。

つまり、これらの証言を鑑みれば吉田氏の指示は所員に伝わっていなかった可能性が高く、また吉田氏自身が第二原発への退避を肯定していることから、「命令に違反」とはいえないと問題視されたのです。また、さらに「撤退」という言葉を使ったことで「否定的な印象を強めており、読者に所員の行動への非難を感じさせる」と、朝日新聞が設置する「報道と人権委員会」(PRC)も指摘し、記事の削除が妥当であるとしています。そして、何よりそのような疑念を生じさせる吉田氏の証言自体が当初の紙面に掲載されなかったので、担当記者は否定しているものの、恣意的に証言を選択したかのような印象が残り、「記事は、公正性、正確性への配慮を欠いていた」とPRCは評価しています。

 

ここで、前回示した「言明」と「アサーション」の概念から、この問題を分析してみましょう。

 

言明とアサーションから分析してみる

―誰の言明か―

言明とは「真偽または確からしさを決定することのできる主語と述語からなる文」であり、「真偽を決定(証明)できるのは、われわれが当該言明の意味(アサーション)を知っているから」でした。 

alvar.hatenablog.com

 

したがって、情報の信頼性を検討する際には、言明の意味を考えることが必要であり、その前提として情報が誰の言明であるのか明らかにすることがまず必要となるのです。

この報道は吉田氏の証言について朝日新聞が記事化して読者に伝えていると考えることができるでしょう。これはどういうことかというと、二重に言明が存在しているということになります。

①吉田氏の証言

朝日新聞の吉田調書の報道

さらに細かいこというと、①は(a)吉田氏が吉田氏の体験に基づく証言と(b)(a)の吉田氏の証言を聴取、反映した調書(書面)とに分類できるでしょう。そして②が伝えているのは①(b)の内容です。そして、それぞれの言明について真偽を考えることが信頼性を検討することになるのです。

 

①吉田氏の証言―真 or 偽

(a)吉田氏が吉田氏の体験に基づく証言と―真 or 偽

(b)(a)の吉田氏の証言を聴取、反映した調書(書面)―真 or 偽

朝日新聞の吉田調書(①(b)の報道)―真 or 偽

 

 

朝日新聞が負っている情報の信頼性とは、まず吉田調書の内容を適切に伝えているか(②)、ということになるでしょう。そしてまさに、この点が問題になったわけです。

もう一つ信頼性という観点で別の見方もできます。吉田氏の言明自体が真実であるのか(①)、すなわち本当に2Fに行けとは言っていないのか、とか、吉田氏の証言が調書に適切に残っているのか、ということです。

私は、この情報提供者の言明自体の真偽についてはマスメディアの責任の範疇を外れていると思っています。といいますか、そのことをマスメディア自体がはっきりと明言すべきだと考えています。以前にも申し上げましたが、マスメディアが伝える情報は、基本的には信頼できる情報源から得た情報を伝えているから、信頼できるのです。例えば行政機関が発表する種々の情報について、一々それが正しか検討しているマスメディアはありません。それが誤っていれば、発表した行政機関が責任を負うまでのことなのです。

つまり、今回でいえば、吉田氏の証言はすべて正しいことが前提で記事は書かれていくものであるのです。この二重のアサーションはメディアのあらゆる情報を検討する際のキーになる観点なので、今後も事例を交えて説明していきたいと思います。

 

アサーション(意味)を考える―

アサーションとは情報の意味でした。いくつかに分解して考える必要があります。

朝日新聞の「評価」

問題となった記事は「所長命令に違反」との見出しで「東日本大震災4日後の2011年3月15日朝、第一原発にいた所員の9割にあたる約650人が吉田氏の待機命令に違反し、10キロ南の福島第二原発へ撤退していた。その後、放射線量は急上昇しており、事故対応が不十分になった可能性がある」と伝えました。これは端的に言うと朝日新聞記者の「評価」になるでしょう。

「命令に違反して撤退」したとは吉田氏は言っていないし、記事も吉田氏がそう言っただとか、吉田氏がそのように評価しているとは書いていないのです。したがって、この「命令に違反して撤退」の言い回しはマスメディア側の「評価」としての表現になるといえるでしょう。そしてこの「評価」を誤った、というのが今回の問題だったわけです。

 

・吉田調書報道の「正確性」と「網羅性」

「本当は私、2F(福島第二)に行けと言っていないんですよ。(中略)福島第一の近辺で、所内に関わらず、線量の低いようなところに1回退避して次の指示を待てと言ったつもり」

こちらは吉田氏(正確には吉田調書)の言明そのものの「正確性」になるでしょう。吉田調書には××の情報が記載されています。朝日新聞はその記載を正確に再現しています、というのがアサーションになります。もちろん、朝日新聞がどこかでそのような宣言をしている訳ではないです。ただ、この記事の情報が信頼できる、あるいは朝日新聞が信頼性を保証していると考えるならば、その信頼性の内容を考えなければならず、その内

容がアサーションということになるのです。

そうした意味で「ここがまた伝言ゲームのあれのところで、行くとしたら2Fかという話をやっていて、退避をして、車を用意してという話をしたら、伝言した人間は、運転手に、福島第二に行けという指示をしたんです」という記載が省略されていたことは「正確性」に疑念を生じさせます。あるいは別のアサーションが問題になるかもしれません。「この記事には吉田調書の内容を伝えるための記載が網羅的になされている」というアサーションです。情報が正しく受け手に伝わり、適切に評価されうるには、情報の「網羅性」(情報の恣意的な選択と対極にあるといえる)が必要になるでしょう。だから、当然に新聞記事は「網羅性」があるというアサーションが存在しているのでしょうか。実はそれさえも、明らかではありません。つまり、新聞社が提供している情報の信頼性とは何か。少なくとも「正確性」は含まれるであろう。しかし、その正確性には「網羅性」も入るのだろうか。入るとしたらどのように情報を取捨選択して「網羅性」を確保しているのか。アサーションを考えることは、記事の「信頼性の質(中身)」を決定することになります。これまで、メディアはそうした情報の意味を明確に示すことなく、曖昧にすることで、信頼性に対する責任を曖昧にしてきたといえるでしょう。それこそが最大の問題だと思います。

 

長くなりました。すみません、ところがまだ書きたいことがありまして。。

 

「所長命令に違反」という朝日新聞の「評価」について、あえて別に問題なかったのではないか?という視点から次のブログに追記させて頂きます。

 

会計監査とは④言明とアサーション

  さて、前回までに財務諸表の信頼性を検証するにあたって、その前提として財務諸表項目の意味を考える必要がある、その意味に対して監査の手続きが選ばれる、という話をしました。また、その意味は会計のルールに照らして明らかにできるということもお伝えしました。今回は同様の内容を監査論という学問においてどのように整理されているのか、理論的な体系をお伝えしたいと思います。特に重要となるのが、「経営者の言明」と「アサーション」という概念ですが、アサーションについては前回のブログで既にお伝えした内容でもあります。

 そして今回の内容は「財務諸表監査」(国元書房、鳥羽至英ら2015)の記述を引用しながらお話していきたいと思います。この本は「経営者の言明」及び「アサーション」の概念を中心に据えた財務諸表監査の概説書です。最終的に監査の対象になるこれら2つの概念について、ここまで丁寧にかつ深堀して解説している本を私は他に知りません。以下に示していくように、財務諸表監査を理解するには、「財務諸表とは何か」というところを出発点に「経営者の言明」、「アサーション」という概念にたどり着くまでの過程を理解する必要があります。

  そもそも財務諸表とは何でしょうか。財務諸表には貸借対照表や損益計算書、キャッシュフロー計算書があるというのはすでにお伝えしました。そしてその作成責任は一にも二にも経営者にある、ということもお伝えしました。経営者の産物である財務諸表と会社の外部者である監査人の監査とはどのような関係にあるのでしょうか。

 「財務諸表監査」によれば

「財務諸表とは、経営者が企業の事業活動に関連して生起した取引(経済的事象)を会計ルール(GAAP)に準拠して認識・測定・表示するというプロセス(会計プロセス)を経て作成したアウトプットであり、経営者の言明である」(p197)

といいます。財務諸表の英訳はfinancial statementですが、statementには言明という意味があります。そして、言明とは

「真偽または確からしさを決定することのできる主語と述語からなる文」(p20)であり、「真偽を決定(証明)できるのは、われわれが当該言明の意味(アサーション)を知っているからである」(同上)。

さらに同書を引用します。

「財務諸表監査は会計プロセスのアウトプットとして財務諸表を監査の主題とする。財務諸表の表示(項目と金額)には経営者の会計上の主張が含まれており、これがアサーションにほかならない。監査人は財務諸表に含まれているアサーションを識別し、それを監査手続きによって裏付け、当該アサーションについての信念を形成する、これが監査人の従事する認識の基本的内実である」(p190)。 

 会計上の主張、すなわちアサーションについては前回のブログの内容を見て頂ければ理解できると思います。財務諸表上の現金預金や売上の持つ意味(これがアサーションです)を明らかにし、その意味に対して監査手続きが選ばれるのです。今回注目して頂きたいのは、財務諸表自体が経営者の言明であって、その言明には経営者の主張、すなわちアサーションが含まれているという、「財務諸表は経営者の主張である」という考え方です。どういう主張かというと、繰り返しになりますが、例えば現金預金100万円は会社に帰属している、だとか売上1,000万円はすべて当期に帰属する、といった主張です。

 以上を踏まえると、監査とは「経営者の言明の信頼性を検証し、保証している」といえるのです。つまり、まず経営者の言明である財務諸表、そしてその意味であるアサーションがあって初めて監査が成立しうるということなのです。これを同書では「言明の監査」と呼んでいます。(なお、同書では非言明の監査も紹介しておりますが、ここでは割愛します)

 この構造は監査手続きにも影響することで、

「言明の監査の最大の特徴は、監査の主題たる言明自体が監査人の行うべき認識の方法と範囲を実質的に決定しているというところにある」(p356)。 

 例えば会社が他の会社の株式だとか社債を持っていれば有価証券として貸借対照表に計上されます。しかし、意図的かどうかはともかく、計上されるべき有価証券が一切計上されていなかった場合、監査人は有価証券の実在性だとか適切な金額で計上されているかといった検証の手続きを少なくとも最初の時点では計画しません。基本的には財務諸表に計上されている項目と金額を対象に手続きを計画するのです。仮にあらゆる会計事象の発生を想定して、計上がない項目についての手続きをすべて検討した場合、あまりに膨大になってしまうでしょう。

 

 この点、計上がない項目について監査が虚偽表示を見過ごしてしまう可能性は否定できないでしょう。しかしながら、例えば有価証券の計上もれがあれば、購入した際には現金の流出があります。配当があれば現金の流入もあります。したがって、現金預金など他の科目が監査されていれば、不整合に気づく可能性が大きいので、一概に監査で掬いきれないとは言い切れません。いずれにせよ、まず財務諸表という経営者の主張ありきなんだ、ということを覚えておいて下さい。

 

 これはある主体が何かしらの情報を提供する際に、その情報が信頼できるものであることを主体自ら主張する場合に、本当にその主張が信頼できるのか検討する際に広く応用できる考え方です。すなわち、情報の出し手がその情報の適正性に責任を持つときには、その情報の意味を明らかにすることができるという前提があり、したがってその情報の適正性を第三者からも検証できる。だから、その情報は信頼することが可能だ、という論理構造を立てることができるのです。

 

 私がこのブログを通じてお伝えしたいのは、マスメディアは自分たちが提供する情報について、「その情報は誰の言明なのか」、その上で「その情報の意味はどのようなアサーションで構成されますか」ということを明らかにすべきだということです。

 

会計監査とは③情報の検証とは意味を考えること

前回、財務諸表全体としての適正性という抽象的な目標を達成するために、具体的にはより下位の立証の目標を立てるということを説明しました。より下位の目標を立てるというのがどういうことかというと、例えば貸借対照表は現金預金や有価証券、借入金、資本金といった各財務諸表科目で構成されますが、各科目に計上される金額の意味を考えて、その意味に対して適切な監査手続きを選択するということなのです。例えば貸借対照表に現金預金が100万円計上されている場合、次のような意味があると考えるのです。

①現金預金100万円は実在している。(実在性)

②会社が所有する現金預金は100万円以外にない。(網羅性)

③現金預金100万円は会社に帰属している(所有権がある)。(権利と義務の帰属)など

あるいは損益計算書に売上1,000万円が計上されている場合、次のような意味があると考えます。

①売上1,000万円は実在している。(実在性)

②売上1,000万円以外に売上はない。(網羅性)

③売上1,000万円は会社に帰属している。(権利と義務の帰属)

④売上1,000万円は当期に帰属している。(期間配分の適切性)など

 

現金預金を例にとれば、A銀行に確認状を送り、A銀行の口座の残高が100万円であるとの回答を得ることにより、この現金預金100万円の実在性を確かめることができます。また、送付する確認状は会社の代表者の名前とともに社判を押して送付するのですが、銀行はこれらの情報をもとに口座を特定して回答するため、まずもってその100万円は会社に帰属するものであるといえるでしょう。難しいのは網羅性です。A銀行の口座には100万円しか残高がなくとも、B銀行の口座にはさらに50万円が預けられているかもしれません。もし、この50万円を無視して貸借対照表の現金預金が100万円と表示されていれば虚偽表示となり、適正に表示しているとはいえなくなってしまいます。そこで、確認状をすべての取引銀行に送り、現金預金の計上額に漏れがないか確かめるのです。同じことは借入金にもいえます。

 

売上でいうと、期間帰属、すなわちどのタイミングで売上を認識するかも問題になります。代表的な考え方には出荷基準と検収基準があります。その名前のとおり、前者は得意先に商品を出荷したタイミングで売上を認識し、後者は得意先が自社の商品を受領し検収したタイミングで売上を認識します。いずれの考えを採用しても、翌期に帰属すべき売上が当期に計上されていたり、当期に帰属すべき売上が翌期に計上されていたりすれば虚偽表示となります。例えば12月決算の会社で出荷基準を採用していた場合、X年の1月1日に出荷した売上について、X-1年の売上に計上していたらX-1年の売上は過大に計上されていることになります。こうしたことが起きていないか、出荷の記録である出荷報告書の日付や売上の記録である売上伝票を確認して各取引の売上の認識が正しいことを確認するという監査手続きが選ばれるのです。

 

以上のように、大事なのは信頼性を検証しようとしたら、そもそもその情報の意味を考える必要がある、ということです。意味を理解できて初めて信頼性の検証が可能となります。意味が不明瞭だったら信頼性を検証するスタートに立っていません。例えば売上が1,000万円というのがある特定の期間に帰属する売上かもしれないし、会社が設立してから今までの累計の金額を意味するかもしれない、あるいはある特定の得意先との取引分しか計上されておらず他にも売上が実在している可能性もある、といった情報の意味があやふやな状況では検証の対象が存在しないのです。

会計においては財務諸表の作り方そのものにルールがあり、「一般に公正妥当と認められる会計基準」と呼ばれています。経営者はそのルールに従って財務諸表を作る必要があります。売上を適切に期間帰属させるというのも、会計のルールで求められていることなのです。裏を返せば、財務諸表の意味はルールに基づいて明らかにできるということなのです。また、それ故に財務諸表が有用な情報足りうるのだ、ということができます。

 

私が、このような監査論の考えをご説明しているのは、あくまでメディア情報の信頼性について話したいからでした。

過去のブログに書いたように、メディアの情報(特にニュース)は、はっきりいってその意味がわからない。だから、本来信頼性を検証することができない。結果、メディア側がどんなに信頼性を強調したり検証したりしようとも、情報を受け取る側には不信感が残ります。逆説的に言えば、朝日新聞の吉田調書問題や従軍慰安婦問題、池上さんのコラム掲載拒否問題などなどの、検証記事やお詫びの会見など、事後的な対応の中において、はじめて記事の意味が明らかになるのです。

 

追記

他の方のブログを読んでいたら、↓のような過去の投稿がありました。

私が言いたいのはこういうようなことなんですね。

特に難聴になったいきさつと退職理由。

ryan-vandez.hatenablog.com

 

 

alvar.hatenablog.com